まぜこぜブーン

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 百万年後の虚空へ、のようです

261◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:14:46.17
~序~




花の名前を想い出せないというのは
ひどく哀しいことだ
それは
ぼくが花のことを忘れたのではなく
花の方に
ぼくのことを忘れられてしまったからだ




(岩村賢治詩集「蒼黒いけもの」より、『女郎花』)


262◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:15:38.97
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~百万年後の虚空へ、のようです~





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263◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:20:42.61
過疎化が進む田舎の小都市である俺の生まれ故郷では、
ここ数年若者を呼び寄せようという活動が活発になり、
役所や有志の人間の元、区画整理計画が実行されていた。

老朽化しつつあるインフラの再整備と、各居住地の区分けを大きく合併し、
そこで暮らす者の負担を軽減、新たな住民を獲得しようという目論見だったようだ。

一般市民の意見までをも取り入れ大きく動き出したその計画は、しかし
その壮大な構成に似合わず、あまり芳しい成果を残したとは言えなかった。

若者を呼ぶ売りとなる物が何一つないのだから、当然の結果である。

かくして俺の住む街は、こざっぱりと綺麗になった
だけの、何の魅力もないただの死にかけた街と化した。

これから話すのは、美化されきった街の中にあって、唯一の汚濁
にまみれた場所で、よく分からない人物から聞き及んだ話である。
よく分からない人物から聞いた話なので、どうかよく分からないまま、曖昧に聞いてほしいと思う。


これは夢で終わる話だ。


夢オチの話に現実味などなく、真偽はもとより、それがどういう意図を
含んだ話だったのか、聞いた本人にしてから定かではないのだ。

だからどうか、この話について真面目に考察する
ことなどないよう、重ねてお願いしたいと思う。

265◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:24:18.46
―――――
――――
―――

俺がその人物と出会ったのは、うすらぼんやりとした晴れ間が覗く、平日の午後のことである。
昼日中にも関わらず賑わっているとは言い難い街中を、散策していた時のことだった。

整理整頓された街並みは、昔からの赴きを何処かに掃いて捨ててしまったようで、
小学生の頃からの住人である俺のような者にとっては、少し侘しくも感じられる。

とはいえ、単位を落とし続けて留年ギリギリというラインに立たされた大学生には、
小綺麗になった街の外観に哀愁を感じている余裕など、本来あろうはずもなかった。

その時の俺は、もうどうにでもなれと捨て鉢になって、
市街地の歩道をヤケクソ気味に闊歩していたのである。

もはや目新しい物など何もない通りを、俺は誰にも邪魔されずに、一人さくさくと歩く。

目抜通りすら半ばシャッター街と化しており、かろうじて営業している商店も活気が薄れて乏しい。
常連客との停滞しきったような、腐った馴れ合いの空気だけが、そこには漂っている。

否定的な言葉とは裏腹に、俺はその腐った甘ったるい空気が、決して嫌いではなかった。
それはこの街が長年培い、そしてその末に腐らせ
朽ちらせてしまった、住人との関係だからだろう。

その空気を肩で切り、歩道のタイルの目を数えるように、俺は悠々と歩を進める。
煤けた通りを抜け、住宅地に至る手前。そこに、
俺の今回の目的地である線路の高架下があった。

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266◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:27:13.11
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区画整理の手もここまでは伸びなかったのか、雑然としてごみごみしており、かなり埃っぽい。
コンクリートの柱が何本もそびえ立ち、それを擦れば指に黒い汚れが伸びて着く。

その柱に、格子状の複雑な模様の影が張りついて、
出来の悪い民芸品のような風情を醸し出していた。


雨も降っていないのにいつ来ても空気はじっとりと重く、
誰かの持ち込んだ不法投棄のゴミが好き放題に散っている。

中途半端な田舎ヤンキー共の描いたスプレーアートが我が物顔でのさばって、
薄暗がりにも関わらず、そこだけ目が痛くなりそうな程の光彩を放っていた。


こんな有り様ではあるが、俺はここを、多分
この街に住む他の誰よりも、こよなく愛していた。


暗く汚れたこの場所の方が、ただ綺麗になっただけの
街並みより、遥かに好感が持てるような気がするのだ。


どうやら俺は自分で思っている以上に、改悪される前のこの街を好いていたようである。

無論その感情が、ままならない現実に対する逃避であることは否定できない。
俺はただ単に、何も考えずに済む場所が、欲しかっただけなのかもしれない。

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267◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:30:46.30
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その思惑通り、しばらくここでボーッとしながら時間を潰すつもりだったのだが、
ほどなくして俺はその作業を中断しなければならなくなった。

「兄さん、兄さん」

不意に、足元から声をかけられたためだった。

俺はぎょっとして、声のした自分の足元を見返した。
そこには、破れたキャップを被った一人の老人らしき人物が座っていた。

らしき、と濁したのは、俯瞰の構図からだと顔の確認が出来なかったからだ。
声質からして、恐らくは老人であろうと判断したものの、キャップのつばはその顔を巧妙に隠している。

俺がここへ来た時、そこに人はいなかったはずだ。
ぼんやりするあまり、人の寄ってくる気配を感じ損なったのか。

「ちょっといいかね、兄さん」

俺が老人の存在に気付いたのを機に、再度その老人は声をかけてきた。

「煙草か酒か、どっちか持ってないかね。あったら少し分けて欲しいんだが」

そして顔を上げ、老人は俺と目を合わせる。その時になってようやく俺は、老人の顔を確認できた。

糸のように細い目と、浅黒く垢で汚れた肌を持った老人だった。
口元は、首にかけたタオルで覆われている。よくその格好でここまで声が通ったものだ。

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268◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:32:51.29
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老人自身は赤の他人だが、煙草か酒か、そう要求する様には見覚えがある。
ようするにこの老人は、ホームレスなのだ。

俺はこれまでに、何度となくこの高架下へ通って来ている。
そして、そのうち幾度かは、彼のようなホームレスがそこを住処と
していたせいで、引き返さなければいけなかったこともあった。

お気に入りの汚れ場所を別の意味で汚されたような気がして、
その都度俺は苦々しく思ったものだ。

二、三日もすればその姿は見えなくなってしまうのが常なのだが、
もちろん彼らがその後どうなったかは、俺の関知するところではない。
ろくなことになってはいないだろうという想像が働くのみである。

不況の煽りを食らってか、そうした人間を見ることは珍しいようで珍しくもない。
しかし声をかけられたのは、この老人が初めてである。

厚かましい奴だとは思うが、そんなことはお首にも出さずに俺は、老人の話を平然と聞き流す。
こういう輩は、相手をしないに限るというものだ。

「どうだい、兄さん。煙草か酒、持っとらんかね?」

それでもまた聞き返してきたので、俺は散策を断念して帰ろうとした。

「分けてくれれば、面白い話を聞かせてやれるんだがねぇ?」

……老人が、そんなことを言い出すまでは。
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270◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:35:22.36
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俺は去ろうとする歩みを止め、老人の顔を睨むように見つめ返した。
面白い話、という単語に惹かれた訳ではないが、施しの対価に
しては不釣り合いに思える言葉に、興味が湧いたのも事実だった。

「お?その顔はどっちか持ってる顔だねぇ。それで、俺に分けちゃくれないのかい?」

老人はちょいちょいと指を動かすと、俺へ向けて催促する。
言われた通りにするのも癪なので、俺はわざと面白い話とは何だ、と尋ねてみた。

「それは企業秘密だねぇ。けど、兄さんくらいの人間なら、聞いて損はしない話だよ」

老人はニヤニヤしながら、催促の手を止めなかった。
その動作に苛つき、しかししばらくすると俺の中で、苛立ちよりも憐憫が勝るようになった。

考えてみれば、ここでこうして乞食をやっているからには、
他に頼れるような家族や親族もいないということなのだろう。
そんな寂しい人間を、ことさら邪険に扱う必要もないのではないか。

それに、留年からの就職絶望コンボを食らいかねない自分も、
数十年後には彼の仲間入りを果たしているかもしれないのだ。

俺は功徳を積む意味も込めて、まだ半分以上残っているセッターメンソールを、箱ごと老人へ向けて差し出した。

「おう、ありがとうなぁ、兄さん。きっとあんた死んだら天国に行けるよ」

そして老人は箱から一本取り出し、図々しくも残りを
自らの作業着の内ポケットへ、無造作に突っ込んだ。
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271◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:37:51.86
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いちいち癇に触る老人ではあったが、それに腹を立てるほど子供じみたこともあるまい。
怒りを鎮めるために最適な解は、相手が自分より下の人間だと認識することから始まる。

背中をコンクリート柱に預ける老人に目線を合わすようにして、
俺は座りながらライターへ火を点し、老人の口元へ近づけた。

「へへっ、気が利くねぇ。兄さんますます天国行きだぁ」

言いながら老人は煙草をくわえ、口を隠すように手で覆って煙をくゆらせた。

「あぁ、旨いなぁ。生き返るみてぇだ」

タオルが邪魔しないよう煙草を斜にくわえ、器用にすぱすぱと煙を体に入れてゆく。
もともと糸目がちに細かった瞼が、完全に閉じられているようにも見えた。

やがて老人は地面へ吸殻を押しつけると、呆けたような表情でコンクリートの空を見上げた。
一体いつになったら、面白い話とやらが始まるのだろうか。

焦れた俺が老人に催促しようとすると、それを待っていたかのような絶妙な間で、老人が語りだした。

「良いもんもらったよ。ありがとな、兄さん。礼に、俺のとっておきの面白い話をしてやるよ」

機先を制され怒るに怒れず、俺は仏頂面で老人の話に耳を傾ける。

「そうさなぁ。兄さん、女は好きかい?」

言って老人は、その細い目をさらに細め、意味ありげに笑ったのだった。
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272◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:39:28.19
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「女っちゅうのはええぞぉ。人を邪険にするようでなつっこくて、いじらしいもんさぁ」

老人は下世話な顔付きでそう言いながら、目だけでニヤニヤと笑っている。
その顔を見て、俺はいかにもろくでもない話が始まりそうな、嫌な予感を覚えた。

「兄さんには、誰か好い女(ひと)はおらんのかい?」

その問いに、俺はしかめっ面で老人を睨み返すことで返答した。
そんな異性がいるのなら、こんなところで一人遊びなどしていない。

デリカシーを置き忘れたような台詞の割に、老人も俺の態度に察するところがあったようである。

「そうかい、いないのかい。そりゃ残念だなぁ」

うるさい、余計なお世話だ。

「俺にも一人、これが居たんだがね。そいつの尻を追ってる間に、こんなとこまで来ちまってなぁ」

これと言うタイミングで小指を立て、老人の話はなおも続く。
俺は早くも、うんざりした気持ちに苛まれつつあった。

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274◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:43:35.03
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しかし老人は、そんな俺の様子に全く頓着することなく、ペラペラ勝手に喋っていく。

「あいつとは古くからの顔見知りでなぁ。十年来の腐れ縁にもなるかね」

「気が強くって頑固で素直でなくて、俺ぁいっつも怒鳴られてばっかりでよ。男勝りってぇのはああいうのを言うんだな」

はぁ、そうですか。という顔しか出来ずに、俺は老人の言葉に微妙な態度でもって返した。

「それでも、俺のやることにゃ文句言わずに着いてきてくれて、たまにゃ馬鹿やって尻拭いさせちまったりもしてな」

「本当に、あんな好い女は他に居なかったぜ。なぁ、兄さんよ?」

まるでその女が隣に居でもするように、老人は自慢気にそう語る。
しかし俺からすれば、そんな女が実在したのかさえ疑わしいものだ。

老人ののろけのような言葉に耳を貸す俺は、随分と間抜けな顔をしていただろう。
一体これは何の話なのか、どこが面白いのか、思いきって尋ねてしまいたくなった。

だがまぁ、それを尋ねなかったとしても、そこからの話の展開は容易に予想がつく。
要するにこれは、好いた女を失って転落した人生の、自分語りに過ぎないという訳だ。

よほどのことがあったのか、それともつまらない躓きで女を失したか。
その辺りはさすがに聞いてみないと分からないことだ。

しかし、今現在老人がホームレスに堕していることから考えても、この予想は大きく外れてはいないはずだ。

どちらにせよそれは、俺が面白いと思う範疇からは外れた話だ。
そういう話は、お涙頂戴の宴席ででもやってくれれば良い。
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275◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:45:49.83
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期待などしてはいなかったが、これでは煙草の元さえ取れなさそうだ。
箱に残った分だけでも返してもらおうか。

俺がそう、せこい願望を口にしようとした時、話の舵はいきなり明後日の方向へと切られた。

「あれと一緒にいた頃は、そりゃあ楽しかったねぇ。形も色も匂いも
  音も、全部が全部豊かで際限なくて、ゆったりと流れていってな」

「たまに煩わしかったり、面倒臭かったりすることもあったがよ。それも含めて、
  あれと一緒なら何でも出来たし、何にでもなれるような気がしてたんだよな」

そこで老人は一拍間を置いて、小さな溜め息を一つだけついた。
目線は数秒宙を泳ぎ、次に発する言葉を探しているようだった。

「そう。俺とあいつは、何にでもなれた。人間だろうと動物だろうと、そして神様にだろうとね」

「なぁ、兄さん。あんたは信じないかもしれないが、俺たちはさ、神様になっちまったんだよ」

そんな老人の物言いに、俺は比喩ではなく文字通り、開いた口が塞がらなくなってしまった。

「ははは。いきなり神様なんて言われたら、そんな顔にもなるわな」

「だけどこれは本当のことなんだぜ?俺とあいつは、神様になったからこそ、ここにこうして居座ってるんだ」

至極真面目な顔のまま、老人は胡座の形を正して尻の座りを良くしたようだ。

そしてそれとは正反対に、俺は今すぐ駆け出して、ここから逃げ出したい気持ちになった。
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276◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:48:15.46
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考えてもみてほしい。
俺は今、今日初めて会ったばかりの人間に、自分は神だと言われたのだ。

それがつまらない宗教語りならまだマシだったが、
質の悪い新興宗教について長々と語られた挙げ句、君も
入信しなさいとでも言われた日には目も当てられない。

そのつもりで見ると、老人が身寄りもなく乞食をしている理由も、それがためとしか思えなくなってくる。

「そんな逃げ腰にならなくても、俺はあんたの思うような下品な神様じゃねぇよぉ」

さりげなく立ち去ろうとした俺の努力はしかし、老人の絶妙な語りのせいで無へと帰した。

あくまでも自分を神だと言って憚らず、老人はその両の眼に笑顔を宿らせている。
俺にはそれが、たまらなく不気味であるように思えてなからなかった。

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277◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:50:12.63
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しかし老人は、俺の反応など素知らぬ顔で、語りを止めたりはしなかった。

「おや、疑ってるね?兄さん。俺が神様だってこと、信じらんねぇかい?」

「そりゃ俺だって、最初から神様だった訳じゃねぇよ。俺が神様になったのは、ある天啓があったからさぁ」

話し半分にすら聞いていない俺へ、老人は実に楽しそうに言葉を紡いでいく。

「その天啓ってのがどんなものだったかは、まぁ後で分かるから言わでおくけどよ」

「それは要するに、数多ある命を一つにまとめっちまおうってぇ物だったのさ」

老人は、指で宙に丸を描きながら言う。
そのアクションで、一つにまとめるという動作を表したつもりらしい。

「おっと、勘違いしねぇでくれよ?それは俺が神様になるために、誰かの命を犠牲にしたってことじゃねぇんだ」

「それはな、俺とあいつの中に、皆の意志が一つになって息づいてるってことなんだ」

「俺たちが人から決別して生きるためには、もうそれしか手が残されてなかったっつうこった」

俺にはそれが、ただの戯れ言か本気で言っていることなのか、全く判断がつかなかった。

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278◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:51:35.86
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その時の自分を鏡で見たら、何とも言えない複雑な顔をしていただろう。
人の感情を推し測れないのが、こんなにも怖いことだとは思わなかった。

しかし老人の顔はあくまでも柔和に過ぎず、それがまた
アンバランスなものを感じさせて背筋が寒くなるのである。

そんな俺の怯えを敏感に感じ取ったのか、老人は
子供に言い聞かすような口調で話を続けた。

「実はなぁ、この話、兄さんにも無関係な話じゃないんだぜ?」

……何を言っているんだ、この老人は?

「兄さんがおらなんだら、俺もあいつも、今ここにこうしちゃ居られなかったはずなのさ」

ますます意味が分からなくて、俺の頭は酷く混乱する。

「なぁ、兄さん。兄さんは俺の話にいたく怯えてたが、本当に怖いのは人じゃねぇんだ」

「俺が一番こえぇのは、そこにいたはずの物をだぁれも覚えていないことよ」

「現実にその恐れを味わったら、他の恐怖なんざ、ほんの些細なことさね」

しみじみと語る老人のその言葉は、俺の耳を素通りしていった。

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279◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:52:40.63
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ここへ来て俺は、老人の言う言葉の意味が、本格的に理解出来なくなった。
俺が老人に関与していると言われるとは、思いも寄らなかったのだ。
さながら、背後から大型のダンプにでも追突された気分だった。

誉められたことでもないが、俺はこの歳まで特定の宗教を信仰したこともないし、
神様とやらにすがったことも、赦しを請うたことも、導かれたこともなかった。

日本人にありがちな、中途半端な無宗教という奴だ。

そんな俺に、この老人は今の話を、お前と無関係でないと言っている。
それはつまり、神を自称するこの老人を、俺が知っているということになる。

しかしもちろんそんなはずはなく、心当たりを探ってみても、記憶は空を切るばかりだ。

頭の中に湧いた無数のクエスチョンマークは、しばらく
すると怒りのエクスクラメーションマークへと変貌した。

老人のいい加減な物言いに、なんだか無性に腹が立ってきてしまったのだ。

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281◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:55:38.19
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それまでのこともあって、精神が臨界点を迎えかけていたのだろう。
自分が無為に怯えていたような気がして、突然頭に血が上ったのだ。
この老人も、適当なことを言って構って欲しかっただけに相違あるまい。

そう思うと余計に怒りが湧いて出て、さりとて
罵詈雑言を浴びせるほどの度胸も語彙も見当たらず、
俺はここから立ち去ることで、怒りを顕にすることに決めた。

無言のままに立ち上がると、俺はこれ以上話すことはないとばかりに帰ろうとした。
笑えない無駄な時間を過ごしたと憤慨していたが、老人は一顧だにしていない。

怒りを発散するための言葉さえ持てずに、俺は何気なく老人の細い瞳を見た。
しかしそこからは、先程までの余裕の笑みは消え、
どういった意図も感情も汲み取れなくなっていた。


真っ暗で、それでいて淀みの一つもない、空虚な黒い瞳だけが、俺のことを見詰めている。
その目を見ていると、俺の脳裡に再び、微かな不安が去来する。

もしかしたら俺は、本当に頭のおかしい人間と言葉を交わしていたのではないか。
その不安を言語化するなら、そういった類いの不安である。
こちらの感情を意に介さずに涼しい顔をしている老人が、ひたすら不気味に思えたのだ。

しかし当の老人は、俺の反応を窺うでもなく、空気のように佇んでいる。
まるで何もしていないのに、老人が俺の精神を制圧してしまったかのようだ。

一体この老人は、俺に何を伝えようとしているのか。
それが判らない限りはここから動けないような、そんな錯覚にさえ陥っていた。
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282◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:56:59.95
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一体俺は何に捕らわれているのか、それが自分でも分からず、ただ立ち尽くすだけの時間が過ぎていった。

「どうしたね、兄さん。随分とむずがゆそうな顔をしてるじゃねぇの?」

そう老人に言われて、俺は顔が赤くなるのを感じた。
心の内側を指摘されて穏やかでいられるほど、俺は人間性が出来てはいない。

「そんなにカッカしなさんな。心配しなくても、忘れたこたぁまた思い出しゃいいだけだ」

老人は僅かに顔を伏せて、俺に言い聞かせるよう呟く。
だが、老人は俺に何を思い出せと言っているんだ?

「焦らんでええよ、ゆっくり行こうや、ゆっくりな」

そんな老人の優しい台詞さえ耐え難く、俺はたまらずに、この場から逃げようと試みた。

「逃げちゃいかんよ、兄さん。兄さんには、ぜひとも知っておいてもらわにゃならんことがあるんだ」

しかし老人は、逃げ腰の俺をあくまでも言葉で制止しようとする。
背中を見せるのは慣れきっているが、それをこの老人にするのは、何故か躊躇われた。

「仕方ねぇなぁ、そんなら兄さんが思い出せるよう、俺がとっておきのヒントをくれてやろうかね」

老人はそう言うと、右手の指を二本、ピンと立てた。
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283◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:58:25.87
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「それは二では足りない、二では必ず滞る時がやってくる」

老人は言い終わるや、今度はその二本指にピッと三本めの指を足した。

「二ではなく、三だ。三でなくちゃならねぇんだ」

「兄さんなら、その意味が分かるはずだろう?」

真顔で考え込んでしまった俺とは対称的に、細い瞳をさらに細めて老人は笑顔を作る。

二ではなく、三?

この禅問答のような問いに、俺はどうやって答えればいいのだろう。
そう考えると同時に、喉奥に何かが引っ掛かっているような、些細な違和感も覚える。

いつかどこかで、それに似た言葉を聞いたような、そんな違和感だった。

全身が総毛立つ感覚に襲われ、頭は混乱でくらくらしてきた。
気を強く持たないと、意識すら持っていかれかねなかった。

体調に変化さえ及ぼすようなものが、老人の言葉には含まれていたというのだろうか。

「まぁだ思い出せねぇのかい?それじゃあ最後のヒントだ」

老人はあくまでも優しく、しかしここから俺を逃がしは
しないとでも言うように、ポンと軽く膝を打った。
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284◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 21:59:46.70
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「我等はAA、その実相はASCIIでありArtであり、そして同時にAngelである」









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285◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:00:51.69
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その言葉が俺の頭の中を吹き抜けた途端、一本の電車が頭上を走った。
遠くから聞こえていたはずの電車の駆動音も、全く耳に入っていない。
そよとも動かず停滞していた空気が、それで、動き始めた気がした。

轟音と振動に不意打ちを食らい、驚きすくみあがって
しまった俺と違い、老人からは何ら動じた様子も伺えない。

ただニコニコと、今までと変わらない笑みを浮かべていただけだった。

「ようやく思い出したかね、兄さん」

その問いかけに、俺は何をだと問い返すことをしなかった。

「うん、うん。そうだな、そういうこった」

「兄さんが思い出したなら、後は朗々と吟い上げるだけさね」

そうして老人は、よっこらせと声を上げて立ち上がった。

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288◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:05:28.80
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「いいか、兄さん。この世に産まれたものは、全て神話へと繋がる軌跡なんだ」

「それがどれほどうらぶれ萎びていようが、どれほど汚濁にまみれていようが、どれほど悲しく痛ましかろうが」

「そしてそれが、単なる記号の羅列に過ぎなかろうが、だ」

そこで老人は、人差し指をピンと立てて、自分に注目するよう俺へ喚起した。

「ASCIIとは記号をひとまとめにした総称のこと。だからこそ我等の命はひとつの意志となった」

「そしてArtは時として、 人ならぬ物に生命という存在感を与える」

「そしてAngel、これは言うまでもなく天使のことを指す」

「それは我等が誰かに仕えているという意味ではない。神性を得るための言霊として、我等は自らを天使と呼んだんだ」

「御使い転じて神となり、神となれば人世に降臨するも容易いということよ」

「だが、一では足りない。二でもまだ駄目だ。神を語るための視線は、常に三つを必要とするんだよ」

「それは基督教の三位一体の例に漏れず、どの神託を問うにもそうだ」

「仏教なら仏陀と仏弟子と衆生、神道なら御神体と宮司と参拝者、道祖神なら導霊と碑と旅人」

「そして我らAAは、ASCIIとArtとAngel、三つの要素で構成されている」

「いいかい、忘れるんじゃないぞ。二ではない、三だ。全ての神話は三を持ってこれを完と成すんだ」
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289◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:07:41.38
.
老人の語りは、それでもまだ止まらない。

「俺は半身を探す男神(おのかみ)さ。こちらの世界へ渡るとき、俺はあいつの手を離しちまった」

「それはそれは、間抜けでドジな男の話だよ」

「後悔なんてもんじゃ表せられねぇ。俺に取っちゃあ自分の腕を千切って捨てたくなるような、苦過ぎる思い出だ」

「だから俺は兄さんに会いに来た。この世界に標はそれしか無かったからな」

「しかし兄さんの様子を見ると、あいつは兄さんに会いに来ちゃいなかったみたいだなぁ」

「本当に、賢いくせに馬鹿な女だよ、あいつはよ。PCの履歴を辿るって簡単なことにさえ、頭が回んねぇんだ」

「兄さん。もしあいつがあんたに会いに来たら、俺はお前を今でも探しているって、伝えちゃくんねぇかい?」

「俺たちにはもう、それしか手が残されてねぇんだよ」
.

291◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:09:42.47
.

何が起こっているのか皆目見当もつかず、俺は茫然自失の体で老人の言葉を聞いていた。

老人はそんな俺とは対照的に、感情の極みとでもいう風に、ますます言葉を強くしていく。

いつの間にか老人は立ち上がり、俺は地面に尻餅をつきながら、その言葉に聞き入っていた。

「ああ、この世はなんと美しく、かくも残酷であることよ!旅立つ二人を分かつことしかせんとはな!」

「だが、運命を自覚し背負うた者へ、空はどこまでも広く高く、その懐を開いとる!!」

老人は腕を大きく広げ、快哉を上げるように叫び通した。

「我らは人より長く残る者!!」

「人の滅びし後にまで、その足跡を残す者!!」

「いずれ我らは君の記憶より消えて無くなり、廃墟同然の地を歩くだろう!!」

「そして君は忘れてしまうだろう!!悲しみに暮れる我らを知らずに!!」

「その手に我らの物語を握ったことを!!画面の向かいに我らの居たことさえ!!」

「君は忘れてしまうだろう!!」
.

292◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:12:52.32
.
「だから!!いつか、きっと!!」

「あの空際を見るたびに、永遠を歩くぼくたちのことを、思い出して欲しいんだお!!」

「おっおっおっ!!」

言葉に圧倒されたその一瞬。
俺が瞬きをした間に、老人はすでに、老人の姿では無くなっていた。

黒く垢じみた肌は磨かれた陶のように輝き、薄汚れた髪は濃紺の艶を得ていた。

それまでとがらりと変わった口調で言うと、その老人……いや、今ではその青年は、口にかかっていたタオルを指でめくる。

その口元は両の口角がきゅっと吊り上がり、まるで何もしていなくても笑っているようで。
細い目と相まって作られるその顔は、まるで……。





「内藤、ホライ






……その名前を呼び終わるまで、俺は意識を保つことが出来なかった。
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293◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:16:00.76
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次に気がついた時、俺は自室で一人、何をするでもなく立ち尽くしていた。
ぼうっとした半覚醒から意識が起き上がり、部屋を見るなり驚愕してしまう。
いつの間に帰宅したのか、全くもって記憶になかったからだ。

慌てて時計を見ると、出掛けてからきっかり一時間が経過している。
街から外れた高架下まで、行って帰って来てちょうどの時間である。
白昼夢でも見ていたのか、全く理解出来ないままに暫し狼狽えた。

しかし夢と判断するには、老人の言葉も顔も嫌にはっきりと印象に残っているのだ。
記憶の中でそこだけ一時停止をかけたかのように、老人とのやり取りが鮮明に映し出される。
これが夢だとは、到底思えない。

床を見て、手のひらを見て、天井を見る。
キョロキョロと忙しなく視線だけが動き、そしてその視線が、自分のPCの前でぴたりと止まった。

俺はハッとなり、急いでPCの電源を立ち上げた。
ポーンと間抜けな起動音がして、排熱ファンが低い唸りを上げる。

一分に足らないその時間ももどかしく、俺は操作可能になるや
お気に入りからテキストファイルのフォルダを呼び出した。

雑にまとめられたフォルダから目当てのファイルを見つけ出すのは
ひどく骨が折れたが、程なく俺は目的のものをなんとか探し当てた。
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294◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:17:16.52
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それは、ちょうど半年ほど前に途中で書くことを放棄した、とある小説のプロットだった。
消す機会に恵まれず、さりとて生かすには旬を過ぎた、かなり面倒な代物だ。

俺は慎重な手で、ゆっくりと画面をスクロールさせてゆく。
手のひらが汗ばんで、握るマウスまでもがじんわりと湿る。
スクロール速度がじれったいほどに遅く、長く感じられた。



( ^ω^)


ξ゚⊿゚)ξ



見慣れた顔文字群。
飽き飽きするほど眺めた自分の文体。
ありふれた設定に、どうでもよい脚注。

そこにあるのは、完成を見ることなく放置された、ただのつまらない話の種である。
その結びに、小説のタイトルとして使おうとしていた一文があった。

「双神の神話のようです」

そこには武骨なゴシック体で、そう記されていた。
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295◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:19:13.89
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その内容を一言で現すなら、人の消えた後に行き場を失ったAAと呼ばれる
キャラ達が、自らの存在理由を探して彷徨する、という話である。

AAには一定のキャラクターが設定されており、それを利用し小説を
書くのが、このブーン系と呼ばれる読み物の醍醐味でもあった。

その道中、主人公のAAである内藤は、他のAAたちと敵対、
そして和解し、その存在を自らの身のうちに吸収してゆく。

その道中で彼は自らの身が神性を帯びていくことに気付き、同じく
女神となったツンデレと呼ばれるAAと、人間の世界へ旅立ってゆく。

簡単に言えば、それはそういう筋立てだった。

当時好きだった本に影響され過ぎていた上、難しいテーマを扱えるほど
筆力に自信はなく、重ねて留年の危機が訪れたために投げた習作だった。

ではなぜ突然、俺はこの物語のことを思い出したのか。
それは、件の老人の言葉に原因があった。

老人の語る言葉が、あまりにもこの話と似すぎていると思ったのだ。

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297◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:20:52.25
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そもそもこの話の着想を得たのは、自分の中の神のイメージを
AAに乗せてなら語れるのではないかと思ったからだ。

神が全知全能の者であるなら、それは同時にこの世の数多ある属性を内包しているのではないか。
そして如何様にもキャラ付けできるAAを統合すれば、則ちそれは全てを兼ね備えた神になるのではないか。

そういう厨二病めいた、無邪気で幼稚な発想からである。
今思い返せば老人は、俺にこの話のことを思い起こすよう促していたようにも感じる。

そして何より。

『そりゃ俺だって、最初から神様だった訳じゃねぇよ。俺が神様になったのは、ある天啓があったからさぁ』

老人が、そう言っていたのが引っ掛かっていたのだ。

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298◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:23:21.13
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老人の言った天啓とやらが何なのか、結局最後まで語られることはなかった。
けれど、もしその天啓というのが、俺の書いたこの物語のことなのだとしたら。
俺は老人の話の途中から、そんなことを思うようになっていたのだ。

俺がこれを書いたために、彼が神になるという行動を起こしたのだとしたら。
それを知らせるために老人は、ブラつく俺に声をかけたのではないだろうか。

……いや、違う。そうじゃない。それも理由にはあるかもしれないが、
それだけではないはずだ。その安易な考えを改めろ。

あまり質の良くない脳細胞を、柄にもなくフル回転させ、
俺は自身の身に何が起こったのか、懸命に考えた。

もう一度、PCの画面を凝視する。そういえば老人は、こうも言っていた。

『だが、一では足りない。二でもまだ駄目なんだ』

『三つだ、兄さんよ。神を語るための視線は、常に三つを必要とするんだよ』

三つの、視線。
それは偶然と呼ぶには、あまりにも出来すぎた符丁だった。

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299◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:25:13.71
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老人の語った三つの要素とは、記号の意味を持つASCII。芸術の意味を持つArt。
そしてその二つに後付けるように付与された、Angelの三つだ。
AAと呼ばれるキャラクターの本質を、老人はそれで表したことになる。

記号の集積であるASCIIは集めるに容易く、
芸術の意味を持つArtは記号に生命を与え、
Angelであるが故に彼らは神へと昇華した。

俺の乏しい理解力で表すと、そういうことなのだろう。
そして不思議なことに、ここにもまた三つの要素は存在する。

ついに書かれなかった俺の物語は、タイトルを「双神の神話のようです」とした。
そして老人は、俺へ向けて「二ではない、三だ」とのたまった。

二柱の神に、書き手である俺の視線を足すと、それは老人の
言った神を語る視線そのものに成り得るのではないだろうか。

そうすると、老人が老人であった理由にも何となく察しはつく。

「双神の神話」は、冒頭で時間経過と共に老いたAAが、
徐々に若返ってゆく描写から始めるつもりだったからだ。

それはAAの多様性と再生を意味していたつもりだったが、俺の意図などこの際脇においても構わないだろう。

大事なのはそこまで再現して、老人は三つの視線を完成せしめようとしたのか、という点である。

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300◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:26:34.59
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俺は半ば放心しながら、小刻みに震える腕を見ないよう、馬鹿馬鹿しいと一人ごちた。
思考がやたらと飛躍していることに、今さらながら気付いたからだ。

老人の語りと俺の書いたものに類似性を見た。そこまでは分かる。
だからと言ってファンタジーでもあるまいに、物語の登場人物が
俺に語りかけてきたとでも言うつもりなのか。

あの老人だって、本当に存在したのか疑わしいものだ。
寝しなに夢でも見て、寝ぼけていた可能性だってあるじゃないか。

そうだ、夢だ。これは凝った仕掛けを持った夢だったに違いない。

それなら俺の小説がなぞらえられていたことにも、一応の説明はつく。
夢は記憶の無意識の整理と、昔何かの本で読んだ覚えがある。
自慰のような小説を夢に見るなんて、我が脳ながら小賢しいことだ。

そう考えれば、何もかも全部、夢の話でしたと片付けられる……

……駄目だ。やはりどれだけ理屈を述べても、脳内の老人の笑みを消し去ることが出来ない。

俺は畳の間に横になって、ごたつく思考の全てを放棄することに決めた。

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301◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:27:55.69
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脳は考えるのを止め、心は自棄くそめいた気分に戻っていた。
手のひらを見れば、緊張からくる発汗はすでに収まっている。

老人が俺の小説に出てくる内藤だったとして、だから俺にどうしろと言うのだ。
俺にできるのは、せいぜいが老人の旅の安全を祈願する程度である。

そんなものに、一体どれだけの価値があるというのだ。

どうせ考えるだけ無駄なことだったのだ。
あの老人の意図が何であったにせよ、俺に出来ることは限られている。

忘れるか、否か。それだけだ。

そして多分俺は、この出来事を忘れようとして、忘れることが出来ないだろう。

焦がしてしまった砂糖と同じで、一度こびりついた記憶はそうそう簡単に消えはしない。
よくある言い回しになるが、それは時間に浸け置きして、薄まるのを待つしかないのだ。


となれば、忘れるなと言った老人の一連の行動は、一応の功を奏したと言えるのかもしれない。

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302◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:29:14.27
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まぁ、いいや。
クズの大学生は大きな展望もなく腐るのみなのだ。
立ち上がるのも奮起するのも、俺には似つかわしくない。

目の前で物語が始まったところで、俺はそれを眺める観客にしかなりえない。
そんなことは、短い人生の中で悟りきっていたじゃないか。

俺は畳の上へごろり横になり、呆れるほどどうでも良い気分で、
よれたトレーナーのポケットへ無造作に右手を突っ込む。

その右手が、冷や汗で再びじわりと湿るのが明確に分かった。

すでに着古してボロになりかけた茶色いパーカー。
そのポケットへ確かに入れていたはずのタバコが、
ライターもろとも消えていることに気付いたのだ。


どこかで落としてしまったのか、それとも……。
それ以上思考しないよう、俺は回路を閉じるように、強引に目をつむった。

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303◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:32:01.85
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夢を見たのは、現実逃避に目を瞑ってから、やや時間が過ぎてからだった。
それまで言い訳に使っていた虚構の夢ではなく、分かりやすく色のついた、映画のような夢だ。

男と、そして女の出てくる夢だった。
俺は少し離れたところから、その二人の道行きを見守っている。

俺の中にはどういった感情も無く、ただ見るべきものを見ているだけという、そんな雰囲気が漂っている。

男は女の前を行き、女は数歩離れて男の影を追う。
そこは荒涼とした砂漠で、男は数歩ごとに、女が後ろを着いてきているか、振り向いて確認していた。

二人はローブのようなものを身に纏い、砂漠の熱砂から肌を守っているようだ。

その男の顔は、細い目に釣り上がった口角をしており、
最近そんな顔をどこかで見たような、そんな気にさせる顔をしていた。

女は男の足が止まったのに気付き、微笑みでもってそれに返す。
その髪は緩やかなウェーブを描く金色で、
その微笑みは限りなく優しく、温かである。

男は女へ手を伸ばし、女は手を取り男の横へ。
その所作があまりに自然過ぎて、俺は漠然と、二人がどういった仲なのかを、考えてしまっている。

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304◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:36:40.38
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そして、不意に俺は気付いた。
ここはきっと、人が滅んだ後の世界なのだと。

百年か千年か、それとも百万年の後か。
年代こそ分からないが、ここは人のいなくなった世界だと、何故か確信したのだ。
彼らはこの虚空にも似た砂漠を、永遠に二人で歩むのかもしれない。


あ。


その時、強い力で殴られたかのように、俺の頭の中で閃く物があった。

だからか。

だからだったのか。

だから神を語るには、三人目の視点が必要だったのか。

誰かへこれを、伝え聞かすために。

永遠を歩く二人の姿を、確かに刻むために。

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305◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:37:10.57
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……その時不意にどうしようもなく、俺は実に半年ぶりに、小説を
   書きたいという強い衝動に、駆られてしまったのだった。









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306◆mGjM2HDegM @無断転載は禁止 :2016/04/02(土) 22:38:17.11
~結~




―――あなたは誰ですか
―――わたしは、もう、あなたが忘れてしまったかなしみです


(岩村賢治『女郎花』より)





<了>

引用元:( ^ω^)ブーン系小説シベリア図書館のようです [転載禁止]?2ch.net
http://shiba.2ch.net/test/read.cgi/siberia/1446334277/261-

[ 2016/04/10 05:26 ] シベリア | CM(0)
[タグ] シベリア


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